スレイヤーズ

 基本的にスレイヤーズについていってることはそこそこ以上に納得がいくのだけど、いくつかアレっと思ったのは

  • 「世界観=手からビームが出る理由」って言い方はいろんな意味で頭悪いからやめようよ
  • CRPG云々は微妙にズレてる感じ。時期も現象も。むしろ「CRPGに限らず演出に走り出した」といった方が合ってそう。「CRPG的なものの頂点」って考え方はいろいろアレです。
  • スレイヤーズの一巻と二巻の差はそこまで極端ではないんじゃないかと。
  • 「手からビームが出る」を言いながら「バトルもの」としての「スレイヤーズ」は話に出てこないの? 特に小説分野でのバトルもの。

多分3つ目あたりが本題。
 スレイヤーズの一巻と言うのは、既存のいろんなもの(バトルものとかCRPGとかハイファンタジーとかソレに対するパロディとか)の中から好きなものだけを選んで「それらを整合させる」ことに注力した作品でもある。面倒な言い方をするなら「リアリティ」を目指した作品です。
 なぜ整合させる必要があったかといえば、それらの間の乖離が激しかったからです。例えば「リアルな世界(ハイファンタジーにしろ現実にしろ)」を数字に写像しただけであった初期のTRPGから、CRPGへ向かうにつれて、元の「リアル」への写像ではなくて「ゲーム性」へ伸びていった部分とか。そこでは「ゲーム性」にカスタマイズされているので、もう「リアル」に直接戻すことは出来ない。だから「ゲーム的」なものを「リアル」に書くためには元とは別のリアルを用意する必要があったわけです。(その「やり方」の違いで世界観の差異化ゲームが発生するのだけど)
 神坂一というのはプロットワークに限らず、けっこういろんなものを整合させるのを好む人だと思っていて。彼が一巻で作り上げた世界観は(もちろん、二巻との間に、一発モノの続きを書きました的断層はあるんだけど)「リアリティ」という面では既に整合している。
 次にその見せ方として「パロディ」がある。薫っちが言うように一巻が一番強い。でも、二巻以降なくなったわけじゃなくて、三巻くらいまでをかけて連続的に弱くなっていく。
 これを「世界観の見せ方論」で見ると、最初の方で世界観の解説をするのは至極当然で、既存のモノのおもしろいところ取り(「なんでもあり系」の一種)をしたのだから、ある程度パロディ性を帯びるのも当然。それに加えて「だらだらとしがちな基盤世界観説明」をパロディ化することでドライブ源に変えてしまうわけである。その後謎が明かされていく過程というのはそれ自体ドライブ源になる部分なのでパロディ化する必要がない。
 だから、スレイヤーズは「和製異世界ファンタジーのマスターピース」だけれども、パロディと切リ分けることもできない。むしろ、重要なのはパロディを流用するところまで含めてマスターピースだというところじゃないかなぁ。
 一方、世界観という面で見たとき、第二部は明かされる謎がないことによって「人」の話に終始し、結果としてつまらなくなったということが出来る。「世界」がメインの話と「人」がメインの話での決定的な差はスケールの大きさである(異論はあるのだろうけど、ここはやはり決定的だと思う)。だから、「世界」を明かしていった第一部に比べて第二部のスケールが大きくなるはずもない。
 さて、「世界」に向かって「キャラクタ」でドライブするという手法はよく使われる手である。特にスレイヤーズでは複数の意味で「キャラクタが世界を現している」と言える訳で、そういう意味では「世界」にこだわる必要もないのだけれど。神坂一の用意した「リアリティ」の制約がキャラクタをただの人にしてしまったという感じもある。
 こういう見方で見るとアニメの第三弾が圧倒的に正しいのだけど。それはそれで少し微妙。