ふと夜に目が冷めて、考えたことをテケトーにメモ。

  • セカイ系とは、本来一足飛びに繋がらないはずの個人の内面と世界を、感覚の誤差を武器につなげる手法である。
  • だが、この手法を多用すると、感覚の誤差という「理由」にあたる要素が薄れ、セカイというものは元から個人の内面とつながる程度のものである、という感覚を生む。また、同時に舞台装置としてのセカイに対して、感覚の誤差という理由なしにそのようなものであることを要求する。この両者は、共にセカイそのものの萎縮という方向性を持つ。
  • セカイが萎縮することにより、セカイと世界の乖離はどんどん大きくなっていく。
  • 乖離が大きくなると、世の常として逆方向の流れが生じる。外側ではセカイ系ではなくシャカイ系への流れが生じるのと同時に、内側では元々の武器であった感覚の誤差に依らない「理由」が要求される。
  • 結果として内側では「世界とシームレスにつながるセカイ」をテーマとした「世界観の差異化ゲーム」の一種が発生しうるのではないか。
  • そのせいで、セミミニマルプレーンな感じの世界観が一部で量産されている気がする。
  • 実際どれくらい発生していたのか/これから発生するのかは要調査。でも多分調査しない。
  • 別の理屈または理屈なしに同じような意味のことを言った人は過去にけっこう居そうだなあ。
  • 一体何の話をしてるのかはご想像にお任せ。